LIBERATEのブログ

思考の足跡

話の説得力が増すテクニック

相手を説得すること、これは難しいことである。自分より立場が上の人間、自分より実力がある人間、寛容であるフリをしておきながら実際には自分の意見を曲げない人間…。 

 

社会にはさまざまな人間がいる。ときに、説得が不可能とも思われる人間がいることは確かである。できれば相手にしたくはないものだが、そうはいかないのも常だ。

 

そんな苦しいなかでも相手を説得したいとき、どんなことに注力すればよいか。これが本記事の表のテーマである。さっそく以下でみていくことにしよう。

 

説得力の第一条 経験・歴史

自分の話に説得力をもたせるには、第一に、経験や歴史を強調することである。

 

成功例を踏まえた話をすると、その話を聞いた人々は「自分もやってみよう」となるかもしれない。その話と同じようにやれば同じように成功するだろう、という思考が働くのである(実際はそう簡単に成功するものではないのだが)。これは、経験の説得力と言えるだろう。たとえば、通販番組における実演販売は、経験のこの側面を利用したものである。

 

歴史も同様である。そもそも人間の経験の集積が歴史であると考えるならば、経験が説得力に利いてくると認める時点で、歴史も説得力に利くと認めるのは必然であるように思われる。

 

むろん、上の「歴史」の捉え方は広すぎるという批判はありうるかもしれない。しかし、歴史を一般的・教科書的な意味で用いる場合でも、事態は同様なのである。たとえば、ある行為を、歴史との類似点を示して語ることで、なぜかその行為が一定の正しさをもっているかのように見えることがあるだろう。つまり、歴史とのアナロジーで語られる行為は説得力をもっているとみられやすい、ということである。

 

また、説得力に関わる歴史の用い方は、歴史との類似点との関係で行為を語ることだけではない。その行為が歴史や伝統に則っているのだ、まさに系譜をくんでいるのだ、という仕方で説得力をもたせることもできる。この仕方は、その行為が正統な行為なのだと主張する点で、歴史との類似点を示すものよりも説得力があるとみられることが多い。

 

説得力の第二条 数字

これはもはや説明不要であるかもしれない。「こうかはばつぐんだ」とただ主張するのではなく、わざわざ百分率の形式で示してやると、なぜか説得される人がでてくる。「X %除菌」「Y %の人が満足」などがその最たる例だ。製造元である企業は、その根拠たるエビデンスを一応もっているはずではあるが、実はプラセボでした、みたいなパターンもあるようである。

 

また、統計がこの向きで利活用されることも少なくない。「数字は嘘をつかない」とよく言われるが、都合のよい数字を出すために、情報の取り方を操作するということがあるのである。たとえば、内閣支持率を割り出すときに、電話調査を利用するとマスメディアにとって狙った結果が出やすい、ということがあげられるだろう。

 

とにかく、数字は客観性をもっていると考えられているために、一定の人々には説得力があるとみられやすいのである。

 

説得力の第三条 権威

権威のある人間の言うことは信じられやすい。「権威がある」とは、立場が上であるということだけでなく、実力があるということでもある。たとえば、医者による診断とそこらの素人による診断では、当たり前だが、前者の方が信じられる。これは医者が医療のスペシャリストであり実力があると捉えられているからである。医者は国家資格である、つまり国家が認めた人間であるという点でその発言に説得力があるとされる例であると言えるだろう。

 

また、権威は経験とあいまって説得力が増すことがある。権威が権威であるとわかっていない人間に対する説明として、キラキラの経歴を示すことがその例である。ハーヴァード卒と言ってみたり、アメリカ留学してましたというだけで、あなたは一般に英語の権威である。

 

説得力の第四条 素行

これは、前三者に比べると消極的なものであるが、行為・発言が説得力をもつための必要条件である。一言でいうと、「誠実であれ」である。狼少年の発言が、真であったにも拘わらず、村の人々に信じられることはなかったのは、人間性が誠実でないからである。

 

また、誠実性の観点から言うと、発言や行為の一貫性も保っておくべきだろう。言行不一致が認められると、途端に説得力がなくなるということがある。余計なことは言わないし、しないことが求められる。

 

以上が説得力の四か条である。いずれも、他者を説得しようとする際に、意識するとよいことがあるかもしれない。

 

説得力があることと正しいこと

ただし、これまでに説明してきたことは、行為や発言の正しさを保証するものではないことに注意が必要である。

 

経験に基づく行為や発言は、なにかほかの状況や条件が異なれば容易に誤るものである。「自分のルールが世界のルール」ではないのである。

 

歴史との類似点・アナロジーを利用するにおいても、そのアナロジーが成立することの正当化がなされないまま説明がすすめられることが多い。さらに、その歴史的状況と現在の状況とではまったく前提条件が異なることもあり、実は歴史との親和性で語ることは怪しい場合が多いのである。

 

また数字については、その取り出し方で帰結が異なる。これを悪用するのは容易である。統計についても、そこから物理法則のような因果的な法則を導き出すことはできない(より正確を期すならば、量子力学統計力学の存在を考えるに、自然法則すらも、因果的な必然性が伴っていると考えるのは危険である、ということになるだろう)。

 

権威も誤ることは当然ある。医療ミスがその最たる例だ。

 

説得力があるように見せることは、実は容易であるのだが、説得力があることは正しいこととはほとんど無関係である。これが本記事の結論である。