LIBERATEのブログ

思考の足跡

統計的生命価値の悲しい話

統計的生命価値とは

 

 統計的生命価値(Value of Statistical Life, VSL):

  統計を利用した費用便益(コスト・ベネフィット, B/C)分析をする際に、人命の価

  値を組み込むために設けられる指標

 

 米国の環境保護庁(Environmental Protection Agency, EPA)は、26もの死亡リスクの伴う政策の費用便益分析をする際に、480万ドルから630万ドルまでのVSLを用いた。日本でも、実務上では、VSLが約3,000万円であると言われている*1

 

 このVSLだが、よく「生命の価値」を規定したとして、ファシズムよろしく恐怖を煽るような言及をなされることがある。つまり、国民の全体の便益を追求する政策一般が、このVSLを組み込んだ費用便益分析によって正当化されるとき、個人の便益や生命が犠牲にされるのではないか、という話である。

 

 もうお察しいただけただろうが、このような議論の運び方はお粗末と言わざるを得ない。政府、とりわけ行政府について、その政策は基本的に法律の根拠に基づいており、かつ、その政策によって何かしらの被害を受けた主体へは、補償の手続きが開かれている。そして、憲法上の権利によって、国民の生命を直接奪うような政策一般が通常は正当化されないことが明らかである。つまり、現行の理論上・実務上、どちらをとっても、政策によって個人の便益が犠牲にされ、そのまま放置されるなんてことはないのである。

 

 しかし、VSLの利用には、注意が必要であることは間違いない。そのことは、VSLが対象となる集団・人々の有するリスクの平均値をとっており、それら集団の属性については何も言っていないことに関係する。以下、見ていくことにしよう。

 

属性による区別と悲しい結末

 

 しばしば、統計的生命価値ではなく、統計的延命価値(Value of Statistical Life Year, VSLY)に基づいて、費用便益分析を行なうべきだ、との主張がなされることがある。この主張に基づくと、若い人々の生命は高齢者の生命よりも統計上価値があることになる。

 

 この主張は確かにわれわれの直観に適合的であるかもしれない。あるいは、交通事故などで亡くなった人の遺族に対する賠償金の算出に際し用いられる死亡逸失利益という項目において、期待される生涯年収が反映されていることも、VSLY導入の追い風になるかもしれない。

 

 しかし、裁判実務上で、個人間の紛争解決に用いられている指標の考え方を、国民全体に影響を与えうるような政策に用いるには謙抑的であるべきだろう。なぜなら、そのような利用は容易に恣意的、スティグマ付与的な政策へと転化するおそれがあるからである。

 

 VSLYについて言うならば、高齢者に対する政策は消極的となり、福祉政策の大部分はかなりの変容を遂げることになる。その変容は若者にとって有利である反面、高齢者にとってはかなり不遇でありうる。つまり、VSLYは、それが公的になされる限りにおいて、高齢であるといった個人の属性によって不公正な取扱いを助長することになる、と言ってもよいかもしれない。

 

 生まれたときが最も位置エネルギーが高く、だんだんとそのエネルギーが減少していくということで、シオラン『生誕の災厄』を想起してもよいだろう。(私による素人解釈は以下の記事)

 

 

liberate.hatenablog.com

 

 

 また、VSLYとは異なる例として、どのくらいの年収があるかという属性についてみてみよう。300万以下、300~500万円、500~750万円、750~1,000万円、1,000万円以上、というように区分けしてみる。この区分けによって生涯年収もある程度規定される。

 

 このとき、個人の属性に感応的なVSLを用いるとどうなるだろうか。おそらく、この区分のどこに付置されるかによって、VSLも異なってくるという結論を導くことになるだろう。つまり、この基準に基づくと、金をよく稼ぐ奴がより価値のある奴だ、ということになるのである。

 

 ほんとうにそれでよいのだろうか。私はここで、贖宥状(免罪符)による赦しと拝金教を想起した。ルターが『95ヶ条の論題』を提起したのは有名である。

 

 以上、見てきたように、個人の属性に感応的なVSLは、どうも危険である。それは恣意的な運用が容易であり、それに伴いスティグマ付与がなされるからである。

 

結語

 

 とはいえ、以上で示した懸念をなんとか払拭しうる途も存在するかもしれない。個人の属性に感応的なVSLの導入が危険であった一因に、恣意的な運用が容易になる、というものがあった。ならば、恣意的ではないということを示してやればよいのだ。つまり、どこからかその基準を敷くことの合理性を調達してくればよい(不運にも私は思いつかないのだが)。

 

 本稿で述べたかったことを要約しよう。

  • VSLが生命の価値を規定しているから、全体の便益のために個人の便益が犠牲になってしまう、という主張は理論上も実務上も取り得ない
  • 個人の属性の感応的なVSLの導入は、ともすれば恣意的な運用ができ、それはスティグマ付与的でありうる。恣意的な運用を回避するためには、その属性に着目する別離の正当化が必要である
 
 

*1:陳玲, 大野栄治ほか二名, 「CVMにおける統計的生命価値の計測」, 2000 (web上にpdfあり)