シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈①
今回から、シオラン『生誕の災厄』の解釈を示していきたい。私が気になった彼の言葉を抜粋する形式をとる。最初にお断りしておくが、この解釈は専門家の知見を一切参照していないし、絶対的なものでもない。そんなものを素人に期待するのは過分というものである。
人間はどんな破壊力を持つ真理にも堪えることができる。その真理が、他の一切のものの代理を務め、交代の相手たる希望に匹敵するだけの活力に充ちていさえすればだ。(8頁)
ここでは、真理と希望が対比されている。真理を把握した主体には希望がない。希望とはその対象への無知によって生じるからだ、ということだろう。
どういうことか。「ああなりたい」「ああしたい」という単純な希望について考えてみる。人は、程度の差はあれど、このような希望に向かうように努力するだろう。しかし、それが叶うものなのか、叶わぬものなのかが完全に把握された状態(真理の把握)においては、そこに賭けはない。
したがって、もし、真理が把握されていたならば、すべてのことが予期できることになる。希望と真理は、この賭けの有無によって分かたれるように思われる。
人間はどこまで頽落しつつあるか、生誕が哀悼をかきたて、痛恨を呼びさますような民族、部族が、ひとつとして見あたらぬという事実ほど、このことを雄弁に告げるものはない。(8頁)
基本的に生誕は喜ばしいものとして振舞われている。一般に子が生まれて悲しまれることは想像しがたい。
対して、死はどうか。これは生誕とは対照的に、悲しまれるものである。その悲しみは、一般に哀悼という形で表現されるだろう。こうして人は、生まれた喜びの瞬間から、死の哀悼の瞬間まで、下り坂をすべっているのである。シオランはこれを頽落と呼んでいるのではないか。
この私の生誕がただのまぐれ当りであり、笑うべき偶発事件でしかないことを私は知っている。にもかかわらず私は、何ごとかに夢中になると、とたんにまるで自分の出生が、世界の進行と平衡維持に欠くべからざる、一大事件であるかのような顔をしはじめる。(10頁)
まず注目しなければならないのは、一文目と二文目とで視点が異なることであろう。一文目は、受精についての生物学的事実を前提している、世界にとっての記述である。他方、二文目は、私から見た世界についての記述である。
面白いのは、二文目で、これは独我論を想定しているように思われるのである。ここで「世界」とは私の認識によって可能になった私の世界である。したがって、私を欠いた「世界」はありえないのである。
このような「世界」のあり方は、たしかに私にとっては一大事件に見える。ただ、一文目からも明らかなとおり、世界にとっては偶発事件であり、そこに「私」という特権視座は存在していないのだ。
もし死が否定的側面しか持たぬとしたら、死ぬことは実行不能の行為となるであろう。(14頁)
これは、言葉遊びだろうか。つまり、死ぬという行為に肯定的側面がないのだとしたら、「できる」「実行可能」ということが言えなくなる、ということなのか。
私は自由でありたい。狂気と紛うまでも自由でありたい。死産児のように自由でありたい。(15頁)
先ほど確認したが、生から死に向かっている人生は頽落の過程である。すると、位置エネルギーとしては、生前が最も高い。死産児は生まれなかった者なのであるから、その意味において、最も位置エネルギーが高い存在である。
位置エネルギーは、高ければ高いほど、なせることが多い。つまり、自由なのである。
(…)結実は裏切りを伴うのだ。決して可能態から逃げ出さないことだ。永遠の優柔不断に居坐ることだ。生れるのを忘れることだ。(16頁)
この一連の言明の面白さは、時系列がさかのぼっていることであろう。時系列は、生れる→永遠の優柔不断→可能態→結実の順である 。
ここで、可能態とは、ある行為を選択しなければなせたはずの、あるいは可能世界において他の行為をなせたはずの私に帰属する状態のことである。卑近な例でいえば、私は現在このブログ記事をしたためているわけだが、現在のこの時間には他の行為もできたはずだ。他行為可能性があったはずだ。しかし、私はブログ記事をしたためることを選択した。
人生は選択の連続だ、と陳腐な言葉で飾ることもできようが、ここでシオランが言いたいことはそうではない。人生は毎瞬間選択を強いられており、選択から逃げることはできず、だが選択すればするほど、ありうる私が消え去っていくことを彼は示したいのだ。つまり、選択することで、可能態の私、ありえた私を裏切ることになる。これを先の「自由」の話にひきつけて読むならば、位置エネルギーが毎瞬間減少することを意味する。
では、この自由を保存するにはどうすればよいのか。それが永遠の優柔不断、選択しないことである。しかし、人間は生誕した途端、選択を強いられる。生まれた以上、優柔不断でいることはできない。だから、この自由は生れるのを忘れることで達成されるのである。