LIBERATEのブログ

思考の足跡

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈③

(ことの顛末)

 途中まで書いていたデータがあったが、下書きに保存するのを忘れ、まるっとするっとデータぶっ飛んた。戻ってまた同じ内容を書くのもつらいので、前回からちょっと内容が飛ぶことをお許しねがう。

 

 以下…

 

 

暴力的な人間はおおむね虚弱児童であり、〈弱虫〉 である。彼らはおのれの軀を生贄に供しつつ、絶え間のない灼熱状態に生きている。その点では禁欲苦行者と同じことである。(38頁)

 

 これは倫理学における、快楽主義やキュニコス派を想像するとわかりやすい。快楽主義は、幸福とは快楽であると捉える。このような幸福観は、幸福と快楽は違う、などの批判にさらされてきたが、とりわけ、エピクロスによる批判が有名であろう。

 

 エピクロスは、幸福が快によって充足されることは認めるものの、その快の内容が、一般的な快楽主義とは一線を画す。つまり、快とは精神的な平定のことをいい、一時的な肉体的快については精神的平定を乱すものとして排除するのである。仏教における空の教えにも似たこの思想は、のちにエピクロス学派に継承されることになる。

 

 さて、重要なのはこの精神的平定のあり方である。肉体的快が際限のない快と不快の連鎖を構成するのに対し、精神的平定は、禁欲苦行者の振る舞いとはどのように異なるだろうか。おそらくここでは、完成された徳を有するかどうか、すなわち、肉体的快の存在に気づいておきながら、なんら気をもまないということが可能か、ということが、エピキュアンにとっての分水嶺となりうる。もし、完成された徳をもたず、ゆえに肉体的快に一喜一憂するようであれば、それは禁欲苦行者となんら変わらないということになるだろう。

 

 キュニコス派の発想もまた、エピキュアンと同様の批判が可能であると思われる。すなわち、シニカルの語源であるキュニコス派の思想でも禁欲を志向するのであるが、そこでの禁欲が、世俗的なものになびくようでは、真に禁欲が達成されたとは言い難いのである。

 

 (藍染惣右介「あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ」を想起したのは内緒だ)

 

 

「しかし神は、あなたがたがその実を食べる日、あなたがたの双の眼が明くことを知っておられる」 眼が明いたとたん惨劇がはじまった。理解せずに見ること。それこそが楽園である。したがって、地獄とは、人間が理解する場所、理解しすぎる場所のことだ。(40頁)

 

 冒頭部は『創世記』第三章からの引用である。有名な最初の人間についての逸話の部分だ。当初、人間は神が治める楽園の地にいたが、禁断の果実を食べてしまったことで堕とされた、という文脈である。

 

 ここで想起すべきは以下の問いである。すなわち、神の治世下において人間がなすべきこととはなんだったのだろうか、楽園では人間は何をしていたのだろうか、万有の神が人間に何ごとかをなせと命じたのだろうか。

 

 元が神話なのでまったく想像の域を出ないのだが、人間は楽園で神が命じたことに対して盲目的に従っていたのではないだろうか。なぜ従わねばならないのか、神が命じたことは正しいのだろうか。。今でいうところの神命説的な問いは、当初赦されていなかったのではなかろうか。

 

 すると、上の文章が理解可能となるだろう。楽園においては、人間は眼を開いておらず、ゆえに盲従の徒であった。しかし、一度眼を開いてしまうと、疑念や懐疑、不服従が可能となり、それゆえ、物事を理解しようとする発想がでてくる。楽園から離れてしまったそのような態度は、ゆえに地獄であると。

 

 話は少し飛ぶが、シオランが自身の詩を楽園の描写と捉えていた場合、私がここでしている解釈行為とは、地獄の所業であるというように整理されることになるだろう。そもそも、詩は韻や描写などから文字情報以上のなにかを表現しようという試みであるのに対し、詩の解釈とは、詩の構造を分解し分析しようというものであるから、詩の解釈という営為はナンセンスである、ということになりそうである。

 

 

何もわざわざ自殺するには及ばない。人間はいつも遅きに失してから自殺するのだ(46頁)

 

 シオランを反出生主義の文脈から捉えている人間からすれば、この一節は重要であろう。それは、一般にシオランが着せられている反出生主義は現に存在する人間を自殺に追い込む思想ではない、ということを示唆するものであるからである。

 

 反出生主義はあくまで生まれるということの邪悪さを説くものであって、現にある生を否定する思想ではない。このことは、私が反出生主義に与さないとはいえ、強調してもしすぎることはないだろう。

 

 さて、自殺するには、いつでも遅いものだ、というのはどういう趣旨か。シオランが生誕以前の楽園に関して思索にふけっていることをみるに、それは生まれた時点でもう遅い、ということであろう。生れた時点で頽落の途が確定しているので、生を否定したとしても、もはや変わらない、ということである。

 

 すると、このことに気づきつつ、生きるとはいかなる営為なのかが気になる点である。定かではないが、少なくとも何かへの裏切りを構成しているのではないか。そう思われてならない。