LIBERATEのブログ

思考の足跡

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈②

長い年月をへだてて人と再会したときは、たがいに向きあって坐り、何時間ものあいだ、ものも言わずにいることだ。その沈黙のおかげで、たがいの茫然自失は、底の底まで味わいつくされるにちがいない。(16頁)

 

 一般に、久しぶりに会った人との会話はとりつくろわれた、うわべのものに終始する。会話は、発言には表立って出てこない人の考え方や、その人がおかれている環境などの要素が組み合わさることで、より深いものになりうるのだが、久しぶりに会った人についてのそれら要素を有していることはない。

 

 しばしば、恋人どうしになる条件として、「沈黙が苦にならない」ことが挙げられる。とりつくろわなくとも相手の考えがわかっていたり、時間や空間を共有できるだけでよいのならば、沈黙は苦にならないのである。そのような関係を可能にするものが信頼や愛であると言いたいならばそう言ってもよいかもしれない。

 

 以前は共にいても沈黙が苦でなかった人と久しぶりに会い、あえて沈黙する。そうすることで、自分の心が相手とどのくらい離れてしまったのかが明らかになるのだ。

 

(まあ、でも言葉にして気持ちを伝えた方がいいよね。過度な理想主義は人を傷つけるから。)

 

 

行動しているあいだ、私たちは一個の目標がある。だが、終ったとたんに行動は、追い求めた目標と同様、私たちにとってもはや実在性を欠くものとなってしまう。してみると、はじめからそこになんら実質的なものはなかったのだ。ただの遊戯だったのだ。だが、人間のなかには、行動している最中に、遊戯でしかないことを自覚する者がある。そうした人間は、前提の段階で結論を、潜在的なものの段階で実現されたものを体験してしまい、彼らがこの世に生きているという事実それ自体によって、真摯なものを根こそぎひっくりかえしてしまうのだ。(16-17頁)

 

 この言葉は、人生における諸々の行動について述べていると考えるか、人生という行動そのものを指していると考えるかで、見え方がまったく異なってくる。前者であると考えるならば、陳腐な素材を着飾ってみせただけのようにも見える。

 

 たとえば、目標や夢・野望などを掲げつつも、それが破れたり、手に入ってしまったとき、喪失感があるだろう。夢破れたときの喪失感は敗北感であったり、劣等感であったりと負の印象が漂う反面、手に入れたときの喪失感は、向かう先、指針の消失であり、虚無である。これもまた陳腐だが、あれだけ努力して手に入れたものなのに、しばらくするとそれが当たり前となり、手に入れる前の自身の苦心や手に入れたときの感動は一切忘れ去られてしまう。これが実在から虚無への移行だろうか。あるいはこの文脈で、恋人が家族になることの意味を考えてもよいかもしれない。

 

 このように、人生における諸々の行動に限定して考えるならば、この言葉はわりとありふれていよう。しかし、シオランが、出生とそこからはじまる生に対して憎悪のようなものを向けていることを考えるならば、この言葉は人生という一連の行動そのものについて述べているのだと考える方が適切なように思われる。

 

 すると、人生そのものが実在性(現実性)を欠く虚構、すなわち、一種の遊戯であると言えることになろう。人は意図せずなぜか生み落とされ、そこからは死への行進、頽落の途を歩む。死への歩みは止めることも遡行することもできない。抗うかのように生のうちに目標をみたとしても、それが叶おうと叶うまいと、自分で見ることを避けていたはずの実在性の不在=虚構性が再び私のまえにやってくる。

 

 このことに気づく人間はなにをするだろうか。虚しさに耐えられないのか、耐えつつ生を謳歌するか。死という終りを自ら迎えることで人生という一連の行動における目標を達成するのか。

 

 「真摯なもの」については、次の言葉とを考えるとわかりやすい。

 

 

死に対して抱いていた興味を使い果たし、もう死からはなんにも引き出せそうもないと見極めると、人間は今度は生誕のほうに向きなおる。別口の、汲めども尽きぬ深い淵のほうに専念しはじめる(17頁)

 

 人生を遊戯と悟りつつも、生をやめない人間は、 目標を達成しようとする人間の通常の営みに対する裏切りを働いている。これが「真摯なもの根こそぎひっくりかえしてしまう」ことであると思われる。

 

 しかし、この裏切りを働いた人間は、死へ向かうことはない。その興味が自身の根元、生誕へと向かうのである。これが深い淵へと向かう、というのは、死というものが自身の選択で可能な行動である反面、生は選択可能でないからである。

 

 死の淵は自身の内にあるが、生はそうではない。因果の鎖のはじまりは神である。