LIBERATEのブログ

思考の足跡

文献解釈

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈④

前回の更新から、しばらく時間が空いてしまった。シオランの思想について私が忘れてしまった部分も多少はあるだろう。ただ、ブログの良さの一つが、内容次第ではあるものの、いつ見てもよい・時間を問わないことにあることに鑑みれば、このような時間経過は…

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈③

(ことの顛末) 途中まで書いていたデータがあったが、下書きに保存するのを忘れ、まるっとするっとデータぶっ飛んた。戻ってまた同じ内容を書くのもつらいので、前回からちょっと内容が飛ぶことをお許しねがう。 以下… 暴力的な人間はおおむね虚弱児童であ…

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈②

長い年月をへだてて人と再会したときは、たがいに向きあって坐り、何時間ものあいだ、ものも言わずにいることだ。その沈黙のおかげで、たがいの茫然自失は、底の底まで味わいつくされるにちがいない。(16頁) 一般に、久しぶりに会った人との会話はとりつく…

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈①

今回から、シオラン『生誕の災厄』の解釈を示していきたい。私が気になった彼の言葉を抜粋する形式をとる。最初にお断りしておくが、この解釈は専門家の知見を一切参照していないし、絶対的なものでもない。そんなものを素人に期待するのは過分というもので…