LIBERATEのブログ

思考の足跡

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈④

 前回の更新から、しばらく時間が空いてしまった。シオランの思想について私が忘れてしまった部分も多少はあるだろう。ただ、ブログの良さの一つが、内容次第ではあるものの、いつ見てもよい・時間を問わないことにあることに鑑みれば、このような時間経過はさして問題ではないだろう。その内容が、少なくとも現時点まで、語り、注目される思想ならば、なおさらである。

 

 

どんな意見も、どのような見解も、局部的な、欠損だらけの、不満足なものたるを免れない。哲学においては、いや何であれ同じことだ、独創性なるものは不完全な定義づけということに帰着する。(47頁)

 

 まずは前文 について考える。あらゆる意見・見解が不完全なものになってしまうのは、思うに二つの説明の仕方があるだろう。

  1. 完全性を掌握しているのは神のみであるから
  2. 人間の能力が不完全だから

 

 1の説明は、神にフォーカスを当てたカトリック的解釈である。前回までの解釈で明らかであるが、シオランにとって、人間がこの世に生を受けるということはそれ自体堕落であり、以降に展開される生もまた堕落の途であった。いわば人間は、神のいる世界から、この現世へと堕ちたということである。このことを、完全性から自ら遠ざかっていることをも意味するとした場合、人間によって産出されるものはなべて不完全である、という結論が導き出されよう。これが一つ目の説明の仕方である。

 

 2の説明は、何ら特筆すべきことはない。事実、人間の認知能力や言語能力は完全とは言えない。いや、むしろそうであるからこそ、完全であるとはいかなることを指すのか、古代ギリシア哲学から問われてきたのだろう。

 

 さてこの二つの説明の仕方は、神にフォーカスするか、人間にフォーカスするかの違いであり、コインの裏表の関係にある。人間の営為はどうあっても不完全であることは免れない。このことは後文の解釈においても妥当する。

 

 では、後文に特有のタームである「独創性」とは何であるか。独創性について語られた(この記事では「創造性」となっているが)次の記事を引用しよう。

 

  

news.yahoo.co.jp

 

 特に注目すべきは以下の言葉である。

 

「何かをクリエイトするということは、とても奇妙なことです。新しいものをクリエイトしたいなら、自分が持っているものを壊し、自分が考えていることやいつもしていることを壊さなければならないからです」

 

  どうやら、「創造性」「独創性」なるものは、古きものを壊すことで生じるということらしい。

 

 他方、シオランはこれとはまったく異なることを主張している。いわく、「独創性」は不完全な定義づけにおわる。つまり、人間の営為によって新たに何かを創造したかのように見えるが、その営為は、実はこれまでの営為の延長線上で語れるものである、ということを主張するのである。

 

 ここで人間の営為の不完全性について、二つの語り口がある。第一に、人間の営為それ自体が、その究極目的への到達可能性を否定されているということ、第二に、時系列上最も進んでいる現在においてなされている人間の営為が、過去の営為の延長線上において完全には語り得ないということである。前者の語り口は、シオラン自身によって否定されている。問題は後者の語り口であるが、このことはガダマーなどの解釈学*1からでてくる帰結であり、シオラン解釈から直接引き出されるかは怪しいが、少なくとも彼自身によって否定される解釈ではない。

 

 仮にこの人間の営為の不完全性に関する二つの語り口が妥当するとしよう。シオランはつまり、「独創性」があると思われているものは、実は人間の二つの不完全性に由来するのだ、と述べていることになる。これがさしあたり私の解釈の結論である。

 

 なお、シオランのこの思想は、上に引用された坂本の発言と実は矛盾しない、と解釈することも可能であろう。一方で坂本は、人間の「創造性(=独創性)」を、無から有を生み出すような、それこそ神の所業の模倣のように考えている節がある。他方、シオランは、それは過去の人間の営為から語りうるものではあるが、人間の不完全さゆえに、語る口をもっていない、と考える。つまり、過去との連関において、「独創性」なるものが存在すると考えるか、あるいは人間が不完全であるがゆえにその営為が新しく見えてしまうが実態はそうではない、と考えるかの違いなのである。これを、言語の使用上における形式的な相違とみるか、「独創性」に関する実質を伴った相違とみるか、これは開かれた問題としておこう。

*1:ガダマーにおいては、解釈者たる私は、過去から現在まで連綿と続く歴史のなかに位置づけられ、過去は現在という地平から解釈される対象である。そしてそのような解釈は一回きり・決定的なものではありえず、不断の問い直しが要請される。ここから、現在ですらも、次の瞬間には、再解釈の対象となる、ということが導かれる。

統計的生命価値の悲しい話

統計的生命価値とは

 

 統計的生命価値(Value of Statistical Life, VSL):

  統計を利用した費用便益(コスト・ベネフィット, B/C)分析をする際に、人命の価

  値を組み込むために設けられる指標

 

 米国の環境保護庁(Environmental Protection Agency, EPA)は、26もの死亡リスクの伴う政策の費用便益分析をする際に、480万ドルから630万ドルまでのVSLを用いた。日本でも、実務上では、VSLが約3,000万円であると言われている*1

 

 このVSLだが、よく「生命の価値」を規定したとして、ファシズムよろしく恐怖を煽るような言及をなされることがある。つまり、国民の全体の便益を追求する政策一般が、このVSLを組み込んだ費用便益分析によって正当化されるとき、個人の便益や生命が犠牲にされるのではないか、という話である。

 

 もうお察しいただけただろうが、このような議論の運び方はお粗末と言わざるを得ない。政府、とりわけ行政府について、その政策は基本的に法律の根拠に基づいており、かつ、その政策によって何かしらの被害を受けた主体へは、補償の手続きが開かれている。そして、憲法上の権利によって、国民の生命を直接奪うような政策一般が通常は正当化されないことが明らかである。つまり、現行の理論上・実務上、どちらをとっても、政策によって個人の便益が犠牲にされ、そのまま放置されるなんてことはないのである。

 

 しかし、VSLの利用には、注意が必要であることは間違いない。そのことは、VSLが対象となる集団・人々の有するリスクの平均値をとっており、それら集団の属性については何も言っていないことに関係する。以下、見ていくことにしよう。

 

属性による区別と悲しい結末

 

 しばしば、統計的生命価値ではなく、統計的延命価値(Value of Statistical Life Year, VSLY)に基づいて、費用便益分析を行なうべきだ、との主張がなされることがある。この主張に基づくと、若い人々の生命は高齢者の生命よりも統計上価値があることになる。

 

 この主張は確かにわれわれの直観に適合的であるかもしれない。あるいは、交通事故などで亡くなった人の遺族に対する賠償金の算出に際し用いられる死亡逸失利益という項目において、期待される生涯年収が反映されていることも、VSLY導入の追い風になるかもしれない。

 

 しかし、裁判実務上で、個人間の紛争解決に用いられている指標の考え方を、国民全体に影響を与えうるような政策に用いるには謙抑的であるべきだろう。なぜなら、そのような利用は容易に恣意的、スティグマ付与的な政策へと転化するおそれがあるからである。

 

 VSLYについて言うならば、高齢者に対する政策は消極的となり、福祉政策の大部分はかなりの変容を遂げることになる。その変容は若者にとって有利である反面、高齢者にとってはかなり不遇でありうる。つまり、VSLYは、それが公的になされる限りにおいて、高齢であるといった個人の属性によって不公正な取扱いを助長することになる、と言ってもよいかもしれない。

 

 生まれたときが最も位置エネルギーが高く、だんだんとそのエネルギーが減少していくということで、シオラン『生誕の災厄』を想起してもよいだろう。(私による素人解釈は以下の記事)

 

 

liberate.hatenablog.com

 

 

 また、VSLYとは異なる例として、どのくらいの年収があるかという属性についてみてみよう。300万以下、300~500万円、500~750万円、750~1,000万円、1,000万円以上、というように区分けしてみる。この区分けによって生涯年収もある程度規定される。

 

 このとき、個人の属性に感応的なVSLを用いるとどうなるだろうか。おそらく、この区分のどこに付置されるかによって、VSLも異なってくるという結論を導くことになるだろう。つまり、この基準に基づくと、金をよく稼ぐ奴がより価値のある奴だ、ということになるのである。

 

 ほんとうにそれでよいのだろうか。私はここで、贖宥状(免罪符)による赦しと拝金教を想起した。ルターが『95ヶ条の論題』を提起したのは有名である。

 

 以上、見てきたように、個人の属性に感応的なVSLは、どうも危険である。それは恣意的な運用が容易であり、それに伴いスティグマ付与がなされるからである。

 

結語

 

 とはいえ、以上で示した懸念をなんとか払拭しうる途も存在するかもしれない。個人の属性に感応的なVSLの導入が危険であった一因に、恣意的な運用が容易になる、というものがあった。ならば、恣意的ではないということを示してやればよいのだ。つまり、どこからかその基準を敷くことの合理性を調達してくればよい(不運にも私は思いつかないのだが)。

 

 本稿で述べたかったことを要約しよう。

  • VSLが生命の価値を規定しているから、全体の便益のために個人の便益が犠牲になってしまう、という主張は理論上も実務上も取り得ない
  • 個人の属性の感応的なVSLの導入は、ともすれば恣意的な運用ができ、それはスティグマ付与的でありうる。恣意的な運用を回避するためには、その属性に着目する別離の正当化が必要である
 
 

*1:陳玲, 大野栄治ほか二名, 「CVMにおける統計的生命価値の計測」, 2000 (web上にpdfあり)

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店, 1976)の解釈③

(ことの顛末)

 途中まで書いていたデータがあったが、下書きに保存するのを忘れ、まるっとするっとデータぶっ飛んた。戻ってまた同じ内容を書くのもつらいので、前回からちょっと内容が飛ぶことをお許しねがう。

 

 以下…

 

 

暴力的な人間はおおむね虚弱児童であり、〈弱虫〉 である。彼らはおのれの軀を生贄に供しつつ、絶え間のない灼熱状態に生きている。その点では禁欲苦行者と同じことである。(38頁)

 

 これは倫理学における、快楽主義やキュニコス派を想像するとわかりやすい。快楽主義は、幸福とは快楽であると捉える。このような幸福観は、幸福と快楽は違う、などの批判にさらされてきたが、とりわけ、エピクロスによる批判が有名であろう。

 

 エピクロスは、幸福が快によって充足されることは認めるものの、その快の内容が、一般的な快楽主義とは一線を画す。つまり、快とは精神的な平定のことをいい、一時的な肉体的快については精神的平定を乱すものとして排除するのである。仏教における空の教えにも似たこの思想は、のちにエピクロス学派に継承されることになる。

 

 さて、重要なのはこの精神的平定のあり方である。肉体的快が際限のない快と不快の連鎖を構成するのに対し、精神的平定は、禁欲苦行者の振る舞いとはどのように異なるだろうか。おそらくここでは、完成された徳を有するかどうか、すなわち、肉体的快の存在に気づいておきながら、なんら気をもまないということが可能か、ということが、エピキュアンにとっての分水嶺となりうる。もし、完成された徳をもたず、ゆえに肉体的快に一喜一憂するようであれば、それは禁欲苦行者となんら変わらないということになるだろう。

 

 キュニコス派の発想もまた、エピキュアンと同様の批判が可能であると思われる。すなわち、シニカルの語源であるキュニコス派の思想でも禁欲を志向するのであるが、そこでの禁欲が、世俗的なものになびくようでは、真に禁欲が達成されたとは言い難いのである。

 

 (藍染惣右介「あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ」を想起したのは内緒だ)

 

 

「しかし神は、あなたがたがその実を食べる日、あなたがたの双の眼が明くことを知っておられる」 眼が明いたとたん惨劇がはじまった。理解せずに見ること。それこそが楽園である。したがって、地獄とは、人間が理解する場所、理解しすぎる場所のことだ。(40頁)

 

 冒頭部は『創世記』第三章からの引用である。有名な最初の人間についての逸話の部分だ。当初、人間は神が治める楽園の地にいたが、禁断の果実を食べてしまったことで堕とされた、という文脈である。

 

 ここで想起すべきは以下の問いである。すなわち、神の治世下において人間がなすべきこととはなんだったのだろうか、楽園では人間は何をしていたのだろうか、万有の神が人間に何ごとかをなせと命じたのだろうか。

 

 元が神話なのでまったく想像の域を出ないのだが、人間は楽園で神が命じたことに対して盲目的に従っていたのではないだろうか。なぜ従わねばならないのか、神が命じたことは正しいのだろうか。。今でいうところの神命説的な問いは、当初赦されていなかったのではなかろうか。

 

 すると、上の文章が理解可能となるだろう。楽園においては、人間は眼を開いておらず、ゆえに盲従の徒であった。しかし、一度眼を開いてしまうと、疑念や懐疑、不服従が可能となり、それゆえ、物事を理解しようとする発想がでてくる。楽園から離れてしまったそのような態度は、ゆえに地獄であると。

 

 話は少し飛ぶが、シオランが自身の詩を楽園の描写と捉えていた場合、私がここでしている解釈行為とは、地獄の所業であるというように整理されることになるだろう。そもそも、詩は韻や描写などから文字情報以上のなにかを表現しようという試みであるのに対し、詩の解釈とは、詩の構造を分解し分析しようというものであるから、詩の解釈という営為はナンセンスである、ということになりそうである。

 

 

何もわざわざ自殺するには及ばない。人間はいつも遅きに失してから自殺するのだ(46頁)

 

 シオランを反出生主義の文脈から捉えている人間からすれば、この一節は重要であろう。それは、一般にシオランが着せられている反出生主義は現に存在する人間を自殺に追い込む思想ではない、ということを示唆するものであるからである。

 

 反出生主義はあくまで生まれるということの邪悪さを説くものであって、現にある生を否定する思想ではない。このことは、私が反出生主義に与さないとはいえ、強調してもしすぎることはないだろう。

 

 さて、自殺するには、いつでも遅いものだ、というのはどういう趣旨か。シオランが生誕以前の楽園に関して思索にふけっていることをみるに、それは生まれた時点でもう遅い、ということであろう。生れた時点で頽落の途が確定しているので、生を否定したとしても、もはや変わらない、ということである。

 

 すると、このことに気づきつつ、生きるとはいかなる営為なのかが気になる点である。定かではないが、少なくとも何かへの裏切りを構成しているのではないか。そう思われてならない。